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扇町アクトトライアル参加作品 ストーリー 99年最大の政治的なテーマであり、また同時期に同じテーマを扱った劇作家も他にいたので、それらとの比較を含めたさまざまな反響を呼んだ。この場を借りて答えておきたい。 まず最も多かったのは「あまりに直接的過ぎたのではないか?」というものだった。 同時期に上演された「天皇制」をテーマとした他の作品と、この作品との大きな違いは、この作品には天皇が直接表象されるという点である。実は、日本の演劇、映画において天皇が直接表象された例はきわめて少ない。実際、映画では一本もないのである(詳しくは、佐藤忠男著『日本映画史』第4巻を見よ)。渡部直己氏はその刺激的な労作『不敬文学論序説』のなかで、物語の核心に触れずにその周辺を周到に描く私小説は、直接触れることなく敬して遠ざけることでその存在を神秘化する天皇制とパラレルな関係であることを指摘する。もちろん、どちらも核心に触れてしまうと大したことはない存在であるということも言外にほのめかされる。つまり、日本で「良くできた小説」というのは、つまらない核心や日常の周辺をいかに周到に描けているかということにかかっているのだ。演劇についても同様であることは言うまでもない。私は、この作品のなかで、まったく直接的に天皇というものを表象することに専念した。アクト・トライアルという場で、それを行うことがささやかなスキャンダルとなるだろうという下心もあった。 だから、「これは、単に天皇の問題を直接的にちゃかしただけではないか」という意見を聞いて複雑な気分になった。「単に」「天皇を表象する」ということがいけないというのが日本のイデオロギーだった。そこに問題があることにすら気付かないほどまで、そのイデオロギーの支配はすみずみまで行き渡っているのである。演劇の専門家と名乗る人が、ある場所でとうとうと演劇史について語ったあと、「こないだのとっても便利は天皇をちゃかしていただけだった」と発言していた。この発言は半分はあたっていて、半分はずれている。「天皇をちゃかしていただけだった」というのは正しい。まさにその通りである。しかし、演劇史について語るなら、この「天皇をちゃかしていただけ」ということそのものが、日本の表象芸術史上におけるスキャンダルであることに触れるべきではなかったか? ゆえに、「あまりに直接的過ぎたのではないか?」という問いには、その質問者と同じ土俵で答えることに躊躇せざるを得ない。問題は、その問いが生まれてしまう日本の表象芸術の、あるいは政治的な現状にある。「あまりに直接的過ぎたのではないか?」と思わず、聞いてしまうような土壌。「芸術作品だったら、そんな直接的なのは駄目で、もっと凝るべきでは?」といった日本的スノビズムには興味はない。そういうものは、日本以外の場所ではまったく通用しない。 音楽やバレエに比べて、演劇は、言葉の壁もあって、外国のカンパニーが来日して、直接触れるということが少ない。渡辺守章氏は、「言葉の演劇の怠惰な現場は、演出家も役者もそれで助かっている」と発言している(「ユリイカ95年3月号」)。多少なりとも外国で演劇をみているものとして、私はこの発言には完全に同意する。 「あまりに直接的過ぎたのではないか?」という問いには、私自身があまりに馬鹿だったため、日本の「演劇界」の現状やわれわれ劇団のレヴェルのことも顧みず、コンセプトにおいて、愚直に当然のことをしようと試みただけですと答えるしかない。 もちろん、そのようなコンセプトが理解されなかったとすれば、とりもなおさずわれわれの責任である。今後、われわれは、劇団全体のレヴェルをもっと上げて、このコンセプトを説得力あるものとして具現化していかなければならない。いろんな意味で、勉強になった公演だった。 |
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