扇町アクトトライアル参加作品
劇団とっても便利 オリジナルミュージカル
『あの歌が思い出せない』
作曲・脚本・演出=大野裕之
99年12/16(木)7.00-
    17(金)7.00-
    18(土)3.00-/7.00-
    19(日)2.00-/6.00-
場所:扇町ミュージアムスクエア

The Staff
作曲・脚本・演出:大野裕之
演出助手:アリコ/ あづ
舞台監督:竹内充春
振付:ミス・イヴォンヌ・スパゲッティ/マキタ・キャロット78/ますだ美季
生演奏バンド:井上真由美(ピアノ)
       小泉大輔(ギター)
       ふむふむ(クラリネット)
       沖田文子(ヴァイオリン)
       玉江亜紀(キーボード)
       ブライアン=タン(キーボード)
       菅原由紀(トランペット)
音響:かもちゃん
照明:澳義則(fromアートステージプロ )
照明助手:薄井芽、手嶋綾乃
舞台美術:大瀬藍  他
衣装:松井昭子
ヴィデオ制作:三澤裕史
撮影:大野裕之
宣伝美術:今西鬼監督
     大野裕之
制作:中屋宏隆
名誉制作:みさちゃん

The Company
ますだ美季(チッソ姫)
後藤裕子(エンペレス)
のむらしんいちろう(エンペラー)
大野裕之(皇太子)
浅野高光(みやの宮)
榊阿希子(タイジンジョセー)
高木裕美(貝柱警部)
竹内充春(バスチーユ)
服部有希(ギャルニエ)
吉田悠来(コンコルド)
セミマール秋葉(尾形信吾首相)
山下多恵子(トナカイ)
佐藤ダイ(トナカイ)
毛呂功(記者)
北村有子(記者)
マキタ・キャロット78(記者)
佐藤夏理(記者)
中山拓(ラケダイモン)
谷口千春(カロニケ)
三澤隆志
笹本康太郎(名方選手)

ストーリー
 「子供はまだか?」と父親から毎日叱られる皇太子。彼は、やっと結婚するのだが、お相手は実は大江健三郎のファンという左翼で、ギリシア喜劇アリストパ ネスの『女の平和』さながらに、性的ストライキを行っており、子供を生ませてくれない。しかも、皇太子は実はゲイだった。業をにやしたエンペレスは、国の基本となる道徳を取り戻すため、国歌・国旗を法制化するが、国歌の歌詞の解釈の問題から、エンペラーに災難がふりかかる。・・・現代のさまざまな不条理(男女差別 問題から、「君が代」法制化問題まで)を超ブラックユーモアで描く。果たして、法制化した「あの歌」を思い出すことは出来るのか?世紀末のメランコリーなんて笑いとばせ!これは問題作!
 京都でダントツの観客動員を誇る劇団とっても便利が最新作でOMSに再び登場。今回は、扇町ミュージアムスクエア15周年、若手劇団の登竜門的存在の演劇祭=第六回アクト・トライアルに出演ということで気合いが入りました。演じるは、久々の復帰第一作ますだ美季、看板俳優のむらしんいちろう・後藤裕子・榊 阿希子など。
 

 当初、作品は「リリカルなラヴストーリー物」だったのだが、99年8月20日ごろ、ロンドン滞在中の大野から制作の中屋に連絡が入り、急遽「君が代」法制化問題をテーマとしたものに脚本を変更した。
 扇町アクト・トライアル参加団体の他劇団に影響を受けて、舞台美術にも力を入れた。セットは再演版の『CHICAGO』を模したもの。ロンドンのフリンジで"BLESS THE BRIDE"というミュージカルで、小人数編成の生演奏に感動した大野は、生演奏を強く希望。結果、本格的な生オケで上演された。
 評価は、おおむね高く、「劇団とっても便利史上最高傑作」という声も出た。ただし、一般のお客さんには大変評価が高かったのだが、いわゆる「小劇場ファン」の方のなかには、高く評価しない人もいた(と思う)。その理由は、下で述べられている。


 あまりに直接的?あまりに愚直? 


 99年最大の政治的なテーマであり、また同時期に同じテーマを扱った劇作家も他にいたので、それらとの比較を含めたさまざまな反響を呼んだ。この場を借りて答えておきたい。
 まず最も多かったのは「あまりに直接的過ぎたのではないか?」というものだった。
 同時期に上演された「天皇制」をテーマとした他の作品と、この作品との大きな違いは、この作品には天皇が直接表象されるという点である。実は、日本の演劇、映画において天皇が直接表象された例はきわめて少ない。実際、映画では一本もないのである(詳しくは、佐藤忠男著『日本映画史』第4巻を見よ)。渡部直己氏はその刺激的な労作『不敬文学論序説』のなかで、物語の核心に触れずにその周辺を周到に描く私小説は、直接触れることなく敬して遠ざけることでその存在を神秘化する天皇制とパラレルな関係であることを指摘する。もちろん、どちらも核心に触れてしまうと大したことはない存在であるということも言外にほのめかされる。つまり、日本で「良くできた小説」というのは、つまらない核心や日常の周辺をいかに周到に描けているかということにかかっているのだ。演劇についても同様であることは言うまでもない。私は、この作品のなかで、まったく直接的に天皇というものを表象することに専念した。アクト・トライアルという場で、それを行うことがささやかなスキャンダルとなるだろうという下心もあった。
 だから、「これは、単に天皇の問題を直接的にちゃかしただけではないか」という意見を聞いて複雑な気分になった。「単に」「天皇を表象する」ということがいけないというのが日本のイデオロギーだった。そこに問題があることにすら気付かないほどまで、そのイデオロギーの支配はすみずみまで行き渡っているのである。演劇の専門家と名乗る人が、ある場所でとうとうと演劇史について語ったあと、「こないだのとっても便利は天皇をちゃかしていただけだった」と発言していた。この発言は半分はあたっていて、半分はずれている。「天皇をちゃかしていただけだった」というのは正しい。まさにその通りである。しかし、演劇史について語るなら、この「天皇をちゃかしていただけ」ということそのものが、日本の表象芸術史上におけるスキャンダルであることに触れるべきではなかったか?
 ゆえに、「あまりに直接的過ぎたのではないか?」という問いには、その質問者と同じ土俵で答えることに躊躇せざるを得ない。問題は、その問いが生まれてしまう日本の表象芸術の、あるいは政治的な現状にある。「あまりに直接的過ぎたのではないか?」と思わず、聞いてしまうような土壌。「芸術作品だったら、そんな直接的なのは駄目で、もっと凝るべきでは?」といった日本的スノビズムには興味はない。そういうものは、日本以外の場所ではまったく通用しない。
 音楽やバレエに比べて、演劇は、言葉の壁もあって、外国のカンパニーが来日して、直接触れるということが少ない。渡辺守章氏は、「言葉の演劇の怠惰な現場は、演出家も役者もそれで助かっている」と発言している(「ユリイカ95年3月号」)。多少なりとも外国で演劇をみているものとして、私はこの発言には完全に同意する。
 「あまりに直接的過ぎたのではないか?」という問いには、私自身があまりに馬鹿だったため、日本の「演劇界」の現状やわれわれ劇団のレヴェルのことも顧みず、コンセプトにおいて、愚直に当然のことをしようと試みただけですと答えるしかない。
 もちろん、そのようなコンセプトが理解されなかったとすれば、とりもなおさずわれわれの責任である。今後、われわれは、劇団全体のレヴェルをもっと上げて、このコンセプトを説得力あるものとして具現化していかなければならない。いろんな意味で、勉強になった公演だった。

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